私は40歳を過ぎてから、ようやく自分の中に潜んでいた倒錯を正面から見つめるようになりました。
表向きは家庭的で常識的に生きてきましたが、その裏で「もっと辱められたい」「支配されたい」という衝動を消せずにいました。
誰にも言えず、ただ心の奥に押し込めてきた欲望でした。
ある日、思い切って出会い系サイトPCMAX(18禁)に登録しました。
プロフィールに正直に「自分は受け身の嗜好が強い」と書くことは勇気が要りましたが、書き終えた瞬間に身体が軽くなるような感覚を覚えました。
私はようやく「隠さない」という選択をしたのです。
メッセージをくれたのは、同年代の男性でした。
彼の言葉はとても穏やかで礼儀正しく、決して下品さはありませんでした。
それなのに「あなたはどこまで委ねられますか?」という短い一文が、私の心を鋭く突きました。
その問いを受けた瞬間、自分が望んでいるのは恋愛ではなく「支配と服従の確かさ」なのだと、改めて自覚しました。
初めて会った時の緊張は今でも忘れられません。
待ち合わせ場所に現れた彼は、ごく普通の服装で落ち着いた雰囲気の人でした。
しかし握手を交わした瞬間、その眼差しに抗えない圧を感じました。
まるで「あなたはここで従う」と告げられたかのようで、私はただ頷くしかありませんでした。
食事の席で交わした会話は一見すると日常的なもの――仕事や趣味の話でした。
けれど時折、彼が私をじっと見つめる時間があり、その沈黙が何よりも私を追い詰めました。
その視線を受けるたびに、心の奥底に隠していた「私は変態だ」という事実が浮き彫りになり、羞恥と同時に妙な安堵を覚えたのです。
その夜、私は初めて「恥を望む自分」をはっきりと体験しました。
彼が口にする一言、間を置いた沈黙、そのすべてが私の倒錯をあぶり出していきました。
肉体的な行為ではなく、心理的にじわじわと追い詰められる感覚こそが、私にとっては快楽でした。
普通の恋愛なら隠すべき弱さを、ここではあえて晒し、受け入れられる。
そんな異様な安心感に包まれていたのです。
家に帰った後、鏡に映った自分の顔を見て「こんなにも満たされた表情をしているのか」と驚きました。
恥をかかされ、変態として認められたことで、私はむしろ自由を得ていました。
大人になってから変態性に向き合うことは、勇気が要ります。
ですが、この経験を通じて私は確信しました。
倒錯は隠すものではなく、正直に差し出すことでこそ価値が生まれるのだと。恥を求める自分を受け入れた瞬間、私は本当の意味で解放されたのです。
その後も彼とのやりとりは続きました。
日常では交わされないような言葉が、メッセージの中ではごく自然にやり取りされていきました。
「今日は従順に過ごせましたか?」――たった一文で心がざわめき、私は日常の自分と裏の自分との間で揺れ動きました。
返事を打つ指が震えることすらありました。
不思議なのは、私は決して暴力や極端な行為を望んでいたのではないということです。
むしろ、ほんの些細な「支配のサイン」によって、自分の中の倒錯が満たされていきました。
視線、言葉、沈黙。
そうした小さな要素が積み重なって、私は変態であることを認めざるを得なくなったのです。
変態性とは、派手で刺激的なものではなく、むしろ静かで粘りつくような感覚だと気づきました。
恥ずかしさと安堵が入り混じり、苦しいのに安心できる。
自分でも理解できない矛盾の中にこそ、私の本当の欲望がありました。
そして彼は、その矛盾を当然のように受け止めてくれました。
その懐の深さに触れるたび、私は「ここが居場所なのだ」と感じるようになったのです。
今振り返れば、あの体験は単なる出会いではなく、人生の転換点でした。
変態である自分を隠し続けるよりも、正直に向き合うことの方が、よほど人間らしく生きられるのだと気づかせてくれたからです。
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